宿敵! ガス屋のおやじ 〜そして闘いは続く〜 の巻

 子供の頃に転校を何度も繰り返したせいか、誰とでもわりとすぐ仲良くなるこの私が、苦手とする人物がここメキシコに二人いる。一人は我がアパートの大家さんで、その名もエレナおばあさん。ガリガリに痩せた彼女は、会う度にお化粧バッチリ。髪型もビシッとセットして、いつも優雅なワンピースに身を包んでいる。彼女の年齢を彷彿とさせる、そのゴツゴツとした長い指には、大きな宝石がキラキラと輝いている。「おばあさん」なんて呼ぶのが失礼なほど凛とした、気品溢れる貴婦人なのである。

 彼女との面会には事前にアポイントが必要で、午前10時前に電話を入れるなんてもってのほか。私は以前、そうとは知らずに9時ごろ電話をかけてしまい、厳しくたしなめられたことがある。普通、年を取ると早起きになると言うが…。彼女の場合、その美容と健康を維持するために、たっぷりめの睡眠を取っていらっしゃるのかもしれない。

 私の部屋の真正面(6号室)に住むこの貴婦人、気難しいだけで、決して悪い人でないことは分かっている。でも、あの痩せてゴツゴツとした顔の中で、ひときわ大きく見える目、青いアイラインの下にある、あのギョロッとした目で見つめられたら、蛇に睨まれたカエル同然。いつも体がすくんでしまう。顔が微笑んでいるときでも眼は絶対に笑っていない。目の前にただ黙って座っているだけなのに、彼女の放つ威圧感に飲み込まれそうになるのだ。

 だから、私は毎月の家賃を小切手で支払う。支払日の朝、それを彼女の玄関ドアの隙間から、そっと奥へと押しこむのである。

 さて、もう一人は“ガス屋のおやじ”、である。名前は知らない。年齢は40歳くらいだろうか。浅黒く、不精ひげをたくわえた中肉中背の彼は、いつも薄汚れた野球帽を被り、生活にとても疲れたような顔をしている。もしかしたら、案外まだ若いのかもしれない。並外れて重いガスのタンクを担いで、階段を上り下りするのが仕事なので、必ず腰には使い込まれて深みを帯びた太い皮製のベルトを巻いている。彼は、毎週土曜日の朝8時、決まって「ガース! ガース!」という雄たけびとともに現れる。

 このおやじがなかなかの曲者で、ちょっと私が油断をすると、2本あるタンクのうち、カラの方ではなくて、満タンの方をしれーっと外して持っていく。かと思えば、勝手にタンクの値段を上げてみたり、チップが少ないと文句を言う。すでに何度か騙された私。そろそろタンクを買わなくちゃ、という頃になると、いつも全身に緊張が走る。土曜の朝がくると、異常に早く目が覚めて、もう寝れない。例によって、彼の雄たけびが聞こえてこようものなら、買う日じゃなくても反射的にビクリとしてしまうのである。

 だが、こんな私も、日本女性の意地にかけ? 最近反撃に乗り出した。そうそう騙されてばかりもいられない。

 「ガース! ガース!」

 (むむっ。来たな。)

 パジャマ姿のまま階段をかけ降り、ドアを開けると、目の前におやじがいた。エレナおばあさんの紺色のゴルフに、だらりと寄りかかっている。

 「ウン タンケ。」 (タンク一本。)

 私は毅然とそう言うと、すぐさま彼に背を向ける。部屋に戻ると、今度は台所の奥にある勝手口から外に出て、中庭の錆びたらせん階段を屋上のタンク置き場まで一気に駆け上る。そして、2本あるタンクを交互に数回持ち上げ、どちらを交換するのかを確認する。あとは呼吸を整え、優雅に(本当は凄く緊張している)屋上からの眺めを楽しむふりをしながら、おやじの到着を待つのだ。

 まだ“人を疑う”ことを知らなかった私が、彼に気を許していた頃は、彼がタンクを交換している間、何かしらおしゃべりをしていた。だがそのために、“隙だらけのお調子者”と思われ、騙されることになったのだと悟った私は、それ以来、必要以外のことは一切喋らないクールな日本人へと変貌を遂げていた。

 カンカンカン…。

 おやじが、らせん階段を駆け登る音が聞こえる。ガスの詰まった、あんなに重い鉄タンクを担いでいながら、軽快な足取り。(カラのタンクでもかなりの重さがある。

 (フッ。おやじのやつ、今日も絶好調だな…。)

 思わず気を引き締める私。

 (さて、本日のお手並み拝見と行くか…。)

 屋上まで無事たどりついた彼は、タンクを肩から下ろすとすぐに、案の定、“ガスが満タンに入った左のタンク”を外しにかかった。

 「おじさんよ、ちょいと待ちな。そのタンクはまだいっぱいだ。アンタが持っていくのは右のタンクじゃないのかい。」

私が言うと、

「いや、このタンクだ。」 と言い張るおやじ。

 (よ、よくも平然と嘘を…。)怒りをぐっとこらえる。そう、ここでは先に熱くなった方が負けなのだ。

 「そ、そうかな…。ちょっと、重さを比べてみていいですか?」

 私は平静を装い、タンクに手を伸ばす。するとおやじは、私が最初に持ち上げようとした“ほんとはカラの右タンク”に、さりげなく自分の体重を掛けながら、こう言い放った。

 「な、重いだろ? こっちはまだガスが入ってるからな。」

 (ウッ…。さすがだな。おやじのやつ、粋な手を使ってきやがった。)だが今日こそは負けられない。

 「あ、やっぱり、右タンクの方が軽いみたいだから、こちらを取り換えてください。私の思い違いでも構いませんから。」 と強引に押しきった! 

 無愛想にタンクを交換し、カラの方を担いで降りていくおやじの後姿を見届けながら、ほっと一息つくオトキータ。そして闘いは続く。

  


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