オトキータ、おじいさんに告白される! の巻

私がメキシコで最後に借りたアパートの1階に、80歳近いと思われるチリ人のおじいさんが、細々と仕立て屋を営んでいた。髪の毛は少し薄くなっているものの、長身でスラリとした紳士だった。彼は、ハシントという白と黒のぶちのあるコッカー犬を飼っていて、その愛らしい風貌は、私に行方不明の愛犬エムカを思い出させた。

彼とは、時々、仕事帰りにハシントの散歩をしているところに出くわすだけで、引っ越して来てからというもの、挨拶程度でほとんど交流はなかった。

私が、会社まで徒歩15分という快適アパートに住み始めてから1年以上が過ぎた、ある土曜日の朝。出先にばったり彼と会った。おじいさんはいつものように犬の散歩中で、私は前の晩に我が家に泊まった友人を、バス乗り場まで送って行くところであった。私達に気がついた彼は、ニッコリ微笑むと、おもむろに言った。

「僕は日本人が嘘をつくなんて思わなかったよ。」

「へっ? どういう意味ですか?」

「君は以前、僕と食事の約束をしておきながら、一度も連絡をくれないじゃないか。」

そういえば、かなり昔に食事に誘われたことがある。
(そっかぁ、おじいちゃんてば、一人で寂しいんだね。)

「すみません。別に悪気があったわけじゃないんです。連絡をくださるものだとばかり思っていたから…。」

「それじゃぁ、明日のお昼はどうかな?」

てな訳で、日曜の午後2時、お宅で彼の手料理(もちろんチリ料理)をご馳走になることになった。
メキシコで、ランチといえばたいてい2時から。早くても1時くらいからである。私が勤めていた会社も、お昼休みは2時から3時半までだった。ファミリーレストランのランチメニューは、7時くらいまで頼める。

そして日曜日。
浴室で洗濯物を干していたら電話が鳴った。階下のおじいさんからだった。時計の針は2時を指している。
食事の準備が整ったから、早く降りてきなさい、とのこと。メキシコ人はとても時間にルーズなんだけど、どうやらチリ人は違うらしい。

おじいさんは笑顔でドアを開けてくれた。部屋に入ると、ハシントが喜んでじゃれついてきた。テーブルの上には、チリ産のワインとグラスが二つ。
席に着いてすぐに出されたお料理は、「きのこのクリームスープ」と「チリ風オムレツ」。

「あ、私、あまりお酒は飲めないんです。」

グラスにワインを注ぎ始めたおじいさんにそう言うと、

「毎日この赤ワインを飲んでいれば、病気なんかしない。僕みたいに元気で長生きできるんだよ。乾杯!」

彼は健康を絵に描いたようなてかり顔で、高々とグラスを上げた。
当初はありきたりの世間話をしていたのだが、いつのまにやら、彼は自分の「女性観」について、熱っぽく語り始めていた。

「ねぇ、オトキータ。ボクの中の女性のイメージはね、乳房なんだよね。その中に顔をうずめていると、安堵感で満たされるんだ。」

何と答えて良いか分からず、ただただ相槌を打つの私。

食後のコーヒーを飲みながら、今度は詩を読んで聞かせてくれた。詳しい内容は覚えていないが、彼のこれまでの人生を振り返った詩で、最後の一節は、“あぁ、最後にもう一度だけ、僕の(心の)庭に、大輪の花(女性)を咲かせたい”で終わっていた。

彼は続けた。

「僕の二番目の妻が出ていってから、かれこれ19年にもなる。彼女は僕を酷く傷つけた。とても酷くね。僕は、彼女が去った後、子供たちの良き父親であるために、他の女性とは一切関係を持たずにきた。皮肉な事にさぁ、僕の子供たちは言うんだよ。『ねぇ、お父さん。どうして再婚しなかったの? 再婚していれば、今ごろ、一人で寂しく暮らすことも無かったのに』ってね。キミ、どう思う?」

「はぁ…。」

「僕は以前、日本に行ったことがあるんだよ。あの頃の僕は若かった…。その時、たまたまチリ人の男性と知り合ってね…。えぇーと、神戸だったかな。彼は、日本人女性と結婚して、チリ料理のレストランを経営していた。僕は、元船乗りだったという彼に聞いたんだ。『どうして、国に帰らないで、日本に残ったんだい?』とね。そしたら、彼は僕にこう言ったんだ。『君は、一度も日本人女性の肌に触れたことがないのかい? 一度でもその滑らかな肌に触れたら、この国から出れなくなるはずだよ…』と。」

そして私の手に触れた。

(バックミュージック:♪ジョーズのテーマ)

この時点で、私は彼のアルバムを全部、しかも一枚づつ丁寧な解説付きで見せられていた。彼の子供の頃の写真はひどく色褪せており、傷みも激しかった。アルバムの最後の方に収められていた一枚の写真を指して、彼は言った。

「彼女は僕の孫でね、26歳なんだよ。」(おおっ、私と同い年だ。)

私は重ねられてしまった手を引っ込めると、何気ない様子で髪を掻き上げた。

「実を言うとね、君が引っ越してきたあの日から、僕は君と話をする機会をうかがっていたんだ。でも、僕みたいな年寄りが声を掛けたら、嫌がるだろうと思って、勇気が出せずにいたんだよ。僕は、君が僕の庭に咲く一輪の花になってくれたら、どんなに嬉しいことか...(中略)... 僕はね、女性の体が欲しくて眠れない夜がある。だけど、僕は分別のつくおとなだから、君を力ずくでどうこうしようとは思わない。ただね、時々、こうして楽しいひとときが一緒に過ごせたら...。」

そして、私の足元に寝そべっていたハシントに向かって、こうささやいた。

「よかったなぁ、ハシント。もう僕達は寂しくないよ」と。

(♪ジョーズのテーマ再び! そしてボリュームUP!)

やっぱり、そういうこと? ひぇー、セクハラよ〜。

それまで問題なく会話をしていた私だが、ここにきて“(彼の言った)スペイン語が分からない”といった様子で、とんまに首をかしげてみた。幸い、彼はこのテーマに関して繰り返すことはしなかった。

(ふぅ。助かった。)

途中、雨が振り出した。“お昼を頂いたらすぐに失礼しよう”と思っていたので、部屋の窓を開けっ放しで出てきてしまった。気にはなったが、彼が延々と話し続けるので、なかなか帰るきっかけをつかめずにいた。

「今日はどうもご馳走様でした。私、そろそろ帰ります。スーパーに買い物にも行かないと行けないし…。」

ようやく立ち上がる。既に3時間以上が経過していた。

(やっと帰れる…。)

彼もすぐに立ち上がったので、そう思った。
と・こ・ろ・が…。

彼は私を見送るためではなく、愛用のギターを取りに行くために、立ち上がったのであった。そして、母国でその昔ミュージシャンだったという彼は、当時のきらびやかな衣裳とプロマイドを披露してくれた後、その熱い眼差しと共に、延々と愛の歌を奏で、歌い続けてくれたのであった。
変な気を使い、途中で拍手をした私もいけなかった。会話も交え、更に2時間経過。

(あぁ、早く家に帰りたい…。)

やっとの思いで切り出す。

「素敵な歌、どうもありがとうございました。暗くなってきたし、もうこれで失礼します…。」

今やすっかり上気した彼は、喉の調子も絶好調。まだまだこれから…といった感じだったが、私の決心が変わりそうにないのを見て取り、諦めてくれたようだった。

「これからスーパーへ行くのかい。気をつけてね。」 

そう優しく言った後、トドメを刺すかのように続けた。

「オトキータ、僕はね、知ってるんだよ。君が毎日、いつ出かけて行って、いつ戻ってくるかを。僕は君が越してきて以来、今までずっと見守って来たんだから。」

(ガァーン! そ、そうだったのか…。知らなかったよぉ…。)

おじいちゃんパワーに打ちのめされ、ふらふらと階段を上る。我が部屋に戻ると、床は降り込んだ雨でびしょびしょ。窓際に置いていたコードレス電話も、水浸しで使えなくなっていた。床のふき掃除に手間取り、スーパーへも行けなかった。

あぁ、踏んだり蹴ったりの(?)日曜日。老人はあなどれない...。

  


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