エルミラばあちゃん(2)〜ばあちゃんを偲んで〜

1996年9月19日。 
アビラ家のエルミラばあちゃんは、敬愛してやまなかった神様(イエス・キリスト)のもとへと旅立った。最後の数ヶ月間のあの苦しかった老いとの闘いの末、ようやく安らぎを手にしたのだ。

81才という長い人生最期の瞬間に彼女の脳裏をよぎったものは、一体何であったのだろうか。
楽しかった若かりし日々の想い出か、それとも最愛の孫ロサウラの笑顔か…。少なくとも、タコスやパンではなかったと私は思いたい。

こともあろうにこの私、ばあちゃんが息を引き取った時、転職後初めて1週間の休暇を取り、大学時代の友人とチアパス州へバス旅行を敢行中であった。途中、一度も家に電話をかけなかったことを何度悔やんだことか。私がいてもいなくても事態に変わりはなかったはずだが、私はその場にいたかった。せめて、ばあちゃんのあの笑顔がもう一度見たかった。こう突然いなくなられては、どうしていいのか分からない…。

1996年9月21日(土) 正午。
さわやかな(?)日焼けとたくさんのお土産を手に家にたどり着いた。中庭では、お父さんがいつものように大工仕事に精を出していた。
「ただいまー!」
この時間、いつも2階のテラスに座っているばあちゃんにも聞こえるように、私は元気よく声を張り上げてから中に入った。まず最初に台所をのぞくと、シルビアお母さんが、ホセお父さん特製の小さな椅子にちょこんと腰掛けていた。彼女はエルミラばあちゃんの次女である。
何となく元気がないようにみえるのは気のせいか。持病のリウマチのせいで、また体調がおもわしくないのだろうか。気にはなったけれど、あえて質問もせずに、私は彼女と会話を始めた。
旅行中のエピソードを話して聞かせているうちに、ふとばあちゃんのことを思い出した。

「ねぇ、ばあちゃんはテラス?」
「いいえ。おばあちゃんはね、ロシーとシナロアに行ったのよ。」
そういえば、アビラ家の末娘ロサウラも、私と1週間違いで休暇を取り、彼女の姉タティアナ夫婦が住むシナロア州に遊びに行くことになっていた。
「え? バスで18時間もかかるのに!?」
と驚く私に、
「本当はね…、おばあちゃん、神様の元へ行ってしまったの…。」
「えっ?」
彼女の突然の言葉を理解するのに、私は長い時間を要した。実際はほんの数秒だったのかもしれない。でも、私にはその数秒がとても長く感じられた。そんな私を哀しげに見つめながらお母さんは続けた。
「オトキータ、食堂に行ってごらん…。」

食堂のテーブルと椅子はぴったりと壁に寄せられ、タイル敷の床には、無数の花束とガラス・コップに入った白いろうそくが、弧を描くように置かれていた。そしてその中央には、石灰の粉でかたどられた十字架があり、色とりどりの花びらが散りばめられていた。上の方には、木製の十字架とばあちゃんの遺影。

エルミラばあちゃんはお花畑をバックに笑っていた。まだ病気になる前の、ふくよかな姿がそこにはあった。それらが一斉に視界へと飛び込んできた途端、私は堰を切ったように泣き出した。涙が次々と溢れ出て、ポタポタと床に落ちた。これには正直驚いた。あんな風に激しく声を上げて泣いたのは、私の記憶では生まれて初めてのことだったからだ。実のおじいちゃんが亡くなった時でさえ泣かなかったのに…。

エルミラばあちゃんとの想い出。それは血の繋がった祖母とのそれより、はるかに多い。

私がアビラ家に居候を始めたばかりの頃、ロサウラの両親が、半年間の予定で、ケレタロ州(*メキシコシティから車で2時間半ほど)にあるカトリックの共同体で生活をすることになった。
当時、私は最初の職場を辞めたばかりで、在職中にたまたまお声のかかった、某日系企業とアメリカの保険会社とのメキシコ合同進出プロジェクトの概要が固まるのを待っていた。とどのつまり、無職であった。だから、日中は大抵ばあちゃんと二人で留守番をしていた。その頃のエルミラばあちゃんは、まだ一人で歩くことが出来たのだが、手の震えがひどかったので、いつも私がコックを担当していた。メキシコ料理のレパートリーが少なかったのと、ばあちゃんが患っていた糖尿病への配慮とから、献立は自然と日本食が多くなった。

食欲旺盛な彼女は、何でも喜んで食べてくれた。何かを禁止されると、より強くそれを欲するようになるのが人の常であるが、ばあちゃんの場合も例外ではなく、
「ねぇ、オトキータ。後生だから、甘いものを買ってきておくれぇ〜。」
「ケサディージャ〔*メキシコ人の主食であるトルティージャ(トウモロコシの粉を練って餃子の皮みたいにして焼いたもの)に、チーズや具を包んで食べる〕が食べたいねぇ。」
と、いつもすがるような眼をして訴えていたものだった。
ばれたらまたみんなに叱られるなぁ、と思いつつも、時々は彼女の要望に応えていたのだが、嬉しそうにチョコレートやパンをほおばる姿を目にするにつけ、何ともいえない思いにかられていた。

こんなエピソードがある。
ある晩、ばあちゃんが一晩中大声で寝言を言い続けたことがあった。その頃の私は念願の転職に成功していた。(前述のメキシコ合同進出プロジェクトがなかなか進展しなかったため、先行きに不安を覚えた私は、別途に就職活動を開始。某日系建設会社のメキシコ支店に採用されたのだ。)
翌日、仕事から帰ったロサウラと私は、恨めしそうに言った。
「ばあちゃん、昨日はものすごい寝言だったよ。ペサディージャ (悪夢)でもみたの?」
すると、笑うことが少なくなっていた彼女の瞳にパッと光が宿った。
「えっ? ケサディージャを買ってきてくれたのかい?」
思わずズッコケた私たちであった。

また、こんなエピソードもある。
ある日、近所にオープンしたばかりのショッピングモールに、アビラ家の女性陣で繰り出すことになり、ばあちゃんには、2時間ほどで戻るからね、と言い残して出かけた。
結婚を期に家を出て、すぐ隣に新居を構えていたアビラ家の長男ぺぺが、心配して様子を見に行ったところ、歩けないはずのばあちゃんがひとり台所に立ち、せっせとトルティージャを温めていた!
そして、いつも身につけていた割烹着のポケットからは、湯気の上がったケサディージャ達が、バツ悪そうに顔を出していた…。

ばあちゃんの生前、私達はよく団欒時に彼女をネタにして大笑いしたものであったが、ばあちゃんはその度に、いたずらっ子の様に肩をすくめ、ぺろっと舌を出していた。
でも実際のところ、あんなに厳しい食事制限を強いられていたばあちゃんしてみれば、笑いごとではなかったはずなのだ。

エルミラばあちゃん、どうか安らかに。

合掌

                                


このページのトップに戻る

エッセイコーナーのトップに戻る