海外で生活するということ

 人として生まれた以上、“孤独”という感情を味あわない人はいまい。日本でも何度か感じたことがあったのだが、異国で味わう“孤独”はそれとはまた違っている。母国に対する郷愁がプラスされるからであろうか。時折、特にのどかな休日の午後など、急にやりきれない思いに駆られることがある。ホロリと、ひとりでに涙まで出て来たりするのだ。

 私のこれまでの歩みを振り返るまでもなく、自分はいろんな意味で、本当に恵まれて来たと思う。努力というよりも“幸運というおいしい波”に乗っかってここまで来た。ここメキシコでも、かけがえのない友人たちと出会うことができたし、お世話になっているアビラ家の人達も、私のことをまるで本当の家族のように可愛がってくれている。文句なんか言ったらバチがあたりそうだ。だけど何かが足りない。時折感じる、漠然とした空しさはどこから来るのか。

 2ヶ月前、一年間の予定でメキシコ留学していた大学時代の同級生が日本に帰国した。あの時は何とも言えない不安や孤独感に襲われ、自分でも驚いた。

 どんなにメキシコ人化しようとしたところで、限界というものがある。それどころか逆に、“自分はやはり日本人なんだ”という感慨が強くなってくるのだから不思議である。自分でこの地を選んでおきながら、何とも都合がいい話だが、“あうん”の呼吸とか、“以心伝心”、“暗黙の了解”といった日本的な人間関係が、妙に懐かしく思えてきたりするのだ。

 しかし、よくよく考えてみると、異国で何も言わずに解ってもらおうとするなんて、なんと傲慢なことか。こちらの生活に慣れて来たせいで、当初持ち合わせていた積極性というものを、失いかけているのかもしれない。このあまりにもマイペースな国メキシコでは、自分がよほどしっかりしていないと、曖昧な雰囲気にトコトン流されてしまう。

 転職してはや一年。仕事のペースが単調になり、やりがいをあまり感じられなくなってきている今日この頃。ここで何とか初心に帰らないと、自己嫌悪の沼にズブズブとはまっていってしまう。そろそろ目的意識の再確認をする時期にきたようだ。来たばかりの頃は日々の生活で手一杯で、あれこれ考え巡らす余裕なんてなかったのに。

 もう24歳。海外で年を重ねることに、自分がプレッシャーを感じるなんて思いもしなかった。

 “生活の慣れ”が“心の充実感”を奪うなんて、人の世とは奥深いものである。                            


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