メキシコで哲学する
外からの束縛や圧力に動じない国メキシコ。その逞しさとふてぶてしさは、ラテン特有の風土と歴史によって培われたものであろう。まさにそれぞれが自分の世界に生きている。規律や団体行動を重んじる日本の社会とは、ほど遠い世界がここにはある。
『光陰矢のごとし』とはよく言ったもので、私のメキシコ生活も、来月で丸3年を迎えようとしている。高鳴る胸を抑えつつ、初めてこの地に降り立ったのは1994年の5月9日だった。
“自分はメキシコで生活するのだ”という、子供の頃からの思い込みを実現すべく、大学でスペイン語を専攻。卒業と同時に意気揚々と(?)やってきた。あの頃は、「メキシコ」が私の目的そのものだった。この間、車の免許を取得し(購入と言った方が正しいのであるが…。)、転職も一度経験した。半年程前からは、長かった“アビラ家”での居候生活にもピリオドを打ち、アパートで一人暮らしを開始。ようやく生活が安定してきた今日この頃である。
生活の余裕からか、それとも25歳という微妙な年齢からか、最近、私は考える。“自分らしい生き方とは一体何だろう?”一見簡単なようで、これを実際に体得するのはなかなか難しい気がする。でも、だからといって人の幸せを妬んだり、誰かのスタイルをまねてみたところで、残るのは空しさばかり。どうせなら前向きな人生を歩みたい。試行錯誤と自己嫌悪を繰り返しながら、少しずつでも自分のスタイルを築き上げていくのだ。
私はここメキシコで、一体何を求めているのか。日本へはもう2年以上も帰っていない。ただメキシコが好きだから…と、このまま先の見えない生活を続けるのもどうかと思う。もともと気負って生きるのが苦手な私は、日本を立つ前、30才になるまでに何か答えを出そうと決めて来た。残された時間はあと5年。
人生はまさに選択の連続。日常生活における些細な選択から、運命を左右するほどの大きな選択まで、日々の選択の積み重ねが、言わばその後の自分の人生の軌跡となる。
様々な情報や人々の思いで渦巻く現代において、そうした外からの誘惑やプレッシャーに振り回されることなく、“自分の心の方位磁石をいつも北−自分の価値観−に向けていられるか”、“自分の心のアンテナにどれだけ素直に従うことが出来るか”が、自分らしい選択、しいては自分らしい生き方にたどり着く近道ではないかと私は思う。
ところで…どこにでも要領のいい人間はいるものである。でも、ここメキシコでは、この要領のいい人間の割合がとても高いような気がする。地道に一生懸命頑張っている人が必ずしも報われるとは限らない。それが哀しい世の常だと分かっていても、やっぱり納得がいかない。だからと言って、イライラとマイナスのエネルギーばかり使うのはどうか。
『No vale la pena.』
−それは、エネルギーの無駄遣い−
“要領の良さも相手の才能のうち”と考えて、それが出来ない自分はひたすら我が道をゆくのみ…とは言ってみるものの…。人に認めてもらいたい気持ちは誰でも同じ。でも、大切なのは、自分の行動に自分できちんと納得できているかどうかだ。そう、自己満足を極めるのも、現代におけるひとつの生き方である。特にここメキシコでは。
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