■■Panchitoのラテン音楽ワールド■■

Archivo #011
クンビアは世界を巡る(1):コロンビア、メキシコ、日本〜出発点とその旅路

日本コロムビア YS--462

「赤いスカートのクンビア 情熱の新リズム/クンビアの祭典」
(カルメン・リベロ楽団)

赤いスカートのクンビア/ラ・クンビア/黒いクリスマス/漁師のクンビア/海上のクンビア他全12曲

メキシコRCA 4321-17496-2

"Los Reyes de la Cumbia de ayer / 20 exitos"

赤いスカートのクンビア/インターナショナル・クンビア/青いスカートのクンビア他全20曲。演奏はパブロ・ベルトラン・ルイスナなどメキシコのダンスバンドに加え、本場コロンビアのルーチョ・ベルムーデス、アルゼンチンのチコ・ノバーロも。

 カフェ・メヒコの主宰者コララテの4人が集まったのは、実はもともとクンビア・バンドを結成するためだった、というエピソードは知る人ぞ知るところかと思うが(結局その試みは全く実現しなかったのだが...)、なぜメキシコ、アルゼンチンなど違う国に行っていた彼女たちが、コロンビア産の「クンビア」(Cumbia)という音楽を共通の楽しみとすることが可能になったのか?と疑問に思われる方もあるだろう。

 ラテンアメリカには実にさまざまなダンス・ミュージックが存在しているが、クンビアほど大衆レベルのパーティー・ミュージックとして全中南米的な広がりを持っている音楽は他にない。そのルーツはコロンビアの海岸地方、前世紀末から素朴な横笛とタイコだけの伴奏で踊られていたというが、コロンビア全土で知られるようになったのは1950年代に入ってからのことらしく、事実1940年代までのコロンビアを代表するダンス・オーケストラの録音の中にクンビアは見当たらない。それ以前コロンビアで主流にあったダンス・ミュージックは「バンブーコ」(bambuco) や「ポロ」(porro) であり、ポロなど聞くかぎりではクンビアと同じようなシャッフルを伴う2拍子のリズムなのだが、それがクンビアの人気に取って代わられたのは音楽よりもダンス(ステップ)の方にポイントがあった、ということかもしれない。

 ともかく1950年代からポロやメレクンベ(merecumbe) などに混じって、コロンビアの大小のダンスバンドが一斉にクンビアを取り上げ始める。その後中南米各地に広まったクンビアのスタイルと比較すると、さすが本場コロンビアのクンビアはノリも重厚だし、スイングの幅も大きい。何よりアコーディオンの軽快さと低音タイコのドコドコした響きが、中南米各地に定着しシンプルになったクンビアとは異なる本場のグルーヴ感をかもしだしている。

 そのクンビアが世界的な注目を浴びるのは1964〜65年のこと。日欧米では1930年のルンバ、1950年代半ばにマンボ&チャチャチャが大流行、ヨーロッパではさらにバイアゥン(ブラジル)の流行などもあった。その後も何匹目かのどじょうを狙ってメレンゲ(ドミニカ)、カリプソ(トリニダード=トバゴ)、パチャンガ(キューバ)、スク・スク(ボリビア)、アイ・ボ・レ(ハイチ)、ボサノヴァ(ブラジル)などが、ラテンアメリカ発のニューリズムとして次々と欧米のレコード会社から売り出された。その中にはそれなりにヒットしたものもあれば、全く空振りに終わったものもある。クンビアは一連のラテン・リズム・ブームの最後を飾った形式といえる。

 ヨーロッパでのクンビアの初紹介は1962年の映画「世界のセクシー・ナイト」(Mondo Sexy di notte) 。ものすごく怪しいタイトルのイタリア映画だが、この中にフランスに拠点を置く多国籍トリオ、ロス・マチュカンボスが「陽気な漁師」(Alegre pescador) (別題:漁師のクンビア)を歌い、ダンサーと共と登場したのだそうだ(実は当時日本でもマチュカンボスの「陽気な漁師」はキングのシングル盤 LED-286として発売されていた。カルメン・リベロ盤より2年ほど早かったのだが当時は好事家の話題に上ったに過ぎなかった)。

 しかし実際にはクンビアが大きな話題になったのは欧米より中南米諸国が先だった。その口火を切ったのはメキシコ。珍しい女性指揮者という話題も手伝ってカルメン・リベロ楽団演奏、リンダ・ベラ歌の「赤いスカートのクンビア」(La pollera colora) が1965年に大ヒット、1か月近くメキシコのヒット・チャートのトップを走った。実際にはちゃんとした男性の指揮者が別にいて、カルメン・リベロはフリフリ付きの赤いスカートをひらひらさせながら楽団の前で踊っていたというから、商業的な狙いが丸見えなのだが、クンビアには「俗」な雰囲気が合う。あからさまな二番煎じ「黄色いスカートのクンビア」(La pollera amarrilla)という曲もソニア・ロペスの歌でヒットしてしまったのも「いかにも」という感じがする(そのあとの「青いスカート」はあまりヒットしなかった)。

 このカルメン・リベロのアルバムはアメリカでも発売され、日本でも少し遅れて日本コロムビア YS-462 「赤いスカートのクンビア 情熱の新リズム/クンビアの祭典」として発売、解説書の裏には「シャボン玉ホリデー」などで「踊る指揮者」として有名だったスマイリー小原による「クンビアの踊り方」という解説がついていた。クンビアの売り込みに大乗り気だった日本コロムビアは1965年5月クラブ・リー(確かプロレスラーの力道山経営のナイトクラブ)で「クンビア発表会」を開催、そこでの演奏も受け持ったスマイリー小原とスカイライナーズによる演奏のクンビアを発売、さらにたまたま来日したスペイン人歌手エルネスト・バスケスを「クンビア男」に仕立ててレコードを発売した(この歌手はたまたまナイトクラブ出演のため来たらしく、クンビアを歌うのは初めてだったとか)。それまでマンボ、チャチャチャ、カリプソ、いずれの本命盤も日本ビクターに主導権を握られてきたコロムビアとしては何としてもクンビアに力を入れたかったのだろう、だめ押しに日本製のクンビア、弘田三枝子歌「恋のクンビア」(三浦康照作詞、和田香苗作曲)を8月に発売、日本コロムビア創立55周年記念盤と銘打たれたところからも気合いの入り方がうかがえる。その後さらにコロムビアからアルゼンチンのクアルテート・インペリアル、東芝からやはりアルゼンチンのロス・ワワンコ、フィリップスからペルーのオーケストラのものも発売されたのだが、結局本場コロンビアのものは当時は未発売、コロムビアの努力のわりには日本でのブームは長続きしなかったのでした...。(アルゼンチン&ペルーにおけるクンビアについては次回)