まずは自己紹介から・・・

 いきなりですがSILVIOと申します。このコーナーでしばらく書かせてもらう、にわかトラベルライターです。勝手にトラベルライターとか言っていますが、本業はジュエリー関係の仕事をしている会社員です、実は。夏休みを利用して先月6年ぶりにメキシコへ行ってきたので、その「感動の旅行記!!」を次回からしばらくアップします。と言っても5日間ぐらいだけど、実際メキシコにいたのは。とにかく忙しくて体力使ったけど、久しぶりにあっちの空気吸って生き返ったって感じです。でもその前にぼくがメキシコに行くことになった成り行きを少し...。

 実を言うと中学生のころまでは、ちまたのラテンイメージとはほど遠い何ともシャイな少年でした。最初にスペイン語を耳にしたのは、ぼくが幼少のころに親父がスペイン語会話なんかテレビで見ていたときで、内気ながらも少しずつラテンの素地が築かれていったようで、運命のようなものさえ感じます。でも今思えば、ぼくのメキシコ行きをいつの間にか意識下に深く植え込んでいたのは、実はプロレス(ルチャ・リブレと向こうでは呼ばれています)だったのかもしれません。小学生の頃、大のプロレス好きで、特にメキシコ人覆面レスラーが繰り広げる空中殺法(宙を舞いながら、キックだのチョップだの頭突きだの何だのと浴びせながら、ど派手に技を決め、相手をやっつけるやつです)にあこがれ、よく真似をしていたのを覚えています(あー、今思い出した、ビニールでマスク作ったりもしてたわ)。いくら芝居じみていようが、あのエンターテイメントに徹したスタイルが素敵じゃないですか。―――実際見たけど本当に空飛んでました、あの人たち。

 そんなぼくが入った大学には、相当な数の留学生がキャンパス中に渦巻いており、いったいここはどこ?みたいな無国籍ゾーンが広がっていたんです。クラスメートにはインドネシア人がいたり、宿舎の隣の部屋にはタイ人が住んでいるという具合で。いろんな留学生が主催するパーティーなんかにも、せっせと遊びに行くようになり、いつの間にか友達の輪が広がっていきました。不思議なことにお互いつたない英語なのに、何だかラテンパーティー野郎たちの輪にぼくは入っていたのです。よく分からないうちに「あれ、あなたはチリの人、あなたはアルゼンチン、え、そこにいるのはペルー?ボリビア?コロンビア?まあどっちでもいいや」って感じです。そんなこんなで学生時代はたくさんのラテンアメリカ人の友達ができました。

 そして大学も3年を終え、他の同級生が卒論だ就職だなんだかんだと言い始めていたある日、ぼくは大学を休学し、メキシコに出発したのです。突然というわけではありませんが、時間が許すうちにどこか、まったく自分が育ったのと異なる環境で、どうしても暮らさなくてはならない気がしたのです。別にラテンアメリカ文化を勉強していたわけでもなく、ただ日本人があまりいないところで暮らして、いろんな人と話をして、おまけにいつの間にかスペイン語が身につけば最高だなと考え、アルバイトした金を貯め、親からの仕送りを前借し、とにかくメキシコへ飛んだのです。

 目指すは、南東部に位置するオアハカ州、オアハカ市。身よりも何もありません。ただ、当時友達だった日系3世メキシコ人のユキコさんが「オアハカの人は温かくて絶対いいよお、スペイン語もゆっくりはっきりだしねえ、あたしは大好きだよ」、と教えてくれたからです。たったそれだけで決めてしまう自分は、「なるようになるさ」の少々お気楽ラテン気質をすでに身につけていたのかもしれません。日本にいる間に取り寄せた大学語学コースのパンフレットだけを頼りに、オアハカへ。実はそれまでメキシコシティーにしかいたことがなく、オアハカなんて行ったこともなかったぼくが、重いトランクを抱え、バスでメキシコシティーから8時間。今こうやって思い出すにつれ、めちゃくちゃだなと思いますが、とにかく着いてしまったんです。そしてその街に結局2年間住むことになるんですが、その2年間の話はまたの機会にゆっくりとお話することにします。

 こうして留学(?)していたのが、1992―94年のこと。その後就職前の95年に2週間ほどいたきりで、今回の旅行は6年ぶりとなりました。本当に短かったけど、会いたかった友達に会えて、とにかくほっとしました。メキシコは何も変わっていないように見えて、結構細かいところが実は変化していたのかなと思います。そんな久しぶりのメキシコに、うちの奥さんと、その義理の妹アチャと3人で行ってきた里帰り報告にしばらくお付き合いください。

 では、次回まで。SILVIOでした。

  


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