第八話 「胃袋が求めていたものは」――グスマン家のダイニングで

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 実に6年ぶりでぼくはグスマン家のメインテーブルに座ることができた。それぞれのトランクは今晩ぼくらが寝る部屋へひとまずそのまま放り込み、とにかくテーブルに座るように促された。グスマン夫人(ママ)はつのる話も全部後回しにしてキッチンから朝食をせっせと運びはじめた。

 ロスの空港から電話で到着が遅れることを告げたとき、彼女は「早く来ないとポソレなくなっちゃうよ」と言っていた。でも半日遅れでテーブルについたぼくらに、ちゃんと好物のポソレを振舞ってくれたのだ。母というのはどこの国でも、帰ってきた家族や久しぶりに来た友人の空腹をおいしいもので満たすものなのだろう。根っから料理好きな夫人は、パーティーや来客があるたびに、本当に楽しそうに、でもものすごく真剣にご馳走を用意する人だ。

 留学時代、週末になると大きな門をこっそり開けては夜な夜な外から帰ってくるぼくの不審な行動のわけが、実はポソレ屋に出かけているからだと彼女に何かの拍子で知れてしまった。いや、もしかしたらぼくが尋ねられて教えたのかも知れないが。そして彼女はそんなぼくのポソレ好きを知って、それまでレパートリーになかったポソレ作りに挑戦、見事得意料理の一つに加えることに成功したのだ。

 「夜食べるって決まってないから、ポソレは別に朝食べても昼食べてもいいんだよ」

 長旅を終えてこの温かいとうもろこしスープをむさぼるぼくを、長いテーブルの反対側で夫人はうれしそうに眺めていた。石造りの家は、天窓から朝の光が差し、蛍光灯なんか必要ないぐらい明るい。外も内も壁は白く塗られていてやんわりとまぶしい光が眼をくすぐる。すすめられるがままにおかわりをし、満腹になった胃袋には忙しく血がめぐり始めた。これだけでぼくはメキシコへぐいっと引き寄せられる...。

 「とうもろこしのスープ」と言うだけではポソレのことは説明しきれない。学生として長期滞在していた頃、はるか彼方の日本のラーメンと、このポソレをいつも重ね合わせた。人は小腹を空かせては夜な夜なポソレ屋に集まり、とうもろこしを噛みしめ、スープをすするのだ。ポソレ専門店は間違いなくこだわりの店で、それぞれが味自慢だ。多分おいしさを極めるには結構地道な努力と試行錯誤が必要で、メキシコ人が最も苦手とする「忍耐」の文字がつきまとうのではないだろうか。さらに手間と時間がかかるためか、ポソレを専門に出す店は意外に少ない。

 骨付き豚肉とにんにくをたっぷりと入れ、何時間も寸胴で煮出したスープには、豚骨特有のこってりとした深いコクがあり、塩味とのバランスは絶妙だ。一口大に裂かれた豚の「顔」の肉は、ラーメンで言えばチャーシューにあたる重要な具だ。とうもろこしとともにスープ中に散りばめられた顔肉は、あまりにぷりぷりっと引き締まっていて、噛むたびに繊維の間からこぼれ落ちる肉汁で、口中は幸せでいっぱいになる。

 そしてこのスープの主役、ラーメンで言えば麺にあたる巨大白とうもろこし「カカワシントレ」にいたっては、日本のコーン粒からは全く想像がつかない必殺のダイナミックさだ。もともと異常に大粒なのに水分をいやと言うほど含んで、何と、実がはちきれ開いてしまっているではないか。そのもちっとした腰のある歯ごたえは、スープやレモン汁と絡まり、何とも言えぬジューシーかつしっかりとした食感を生み出す。

 まだ噛んでいる途中なのにスプーンのやつが次から次へと勝手に具を口へ放り込んできて、あっという間に口の中が飽和状態になる。ラーメンを食べていると、麺を口に運ぶ箸が我を忘れて止まらなくなることがありませんか?それと同じで、巨大とうもろこしを目の前に「スプーンのノンストップ暴走現象」がメキシコのポソレ屋では常に起こっているのだと、ぼくは密かににらんでいる。

 さらにこの料理、いたるところで小技が効いている。食べるときに散らすオレガノの粉末は、さわやかなアクセントとなり、口に運ぶたびにふんわりハーブが香る。トルティージャを揚げたトスターダスをバリバリと割りながらスープと交互に口に入れれば、乾いた大きな音が歯から伝わる振動で脳が直接刺激される。トッピングには刻んだレタスとラディッシュのスライス。輪切りされたラディッシュは外の皮が鮮やかな紫赤で、見た目のコントラストも麗しい。さらに小レモンを親指と人差し指でこれでもかとしつこく絞り、こってりダシに一滴の清涼感を与える。

 そんなたくさんの脇役たちに支えられ、ポソレは嗅覚、聴覚、視覚にいたるまでのあらゆる感覚を動員させてしまう本能直接訴え型の逸品と相成りえるのだ。何でもかんでも唐辛子をぶち込み、辛さで味をごまかしているようなイメージがメキシコ料理には先行しがちだが、実はものすごく手が込んでいて芸が細かい事が多い。

 あくまでもメインディッシュになれない中途半端なポジションも、にくいほどラーメンに共通している。実際はメインをはれるだけのボリュームがあるが、少しばかり控えめに前菜的地位に甘んじたりしている。タコスほどの知名度もなく、海外ではほとんど食べられないのは、決め手となる巨大とうもろこしが手に入らないからだろう。このように常に控えめで、隠れた実力派たろうとする姿勢に心をくすぐられるぼくは、結構マニアックな域に入っているのかも知れない。

 思わず熱が入って長くなってしまったが、どうやらぼくはポソレを愛しすぎてしまったようだ。いや、きっと人生でかけがえのない一部分として自らの中に取り込んでしまったのかもしれない。メキシコを離れている間、ずっと恋しくてさびしくて、いっそ週末に飛行機に乗って食べに行ってしまおうかと考えるほどの禁断症状に悩まされた。

 「料理がおいしいからメキシコに行きたいだけなんじゃないの?」などと友人に聞かれたなら、多分ぼくは「はい、正解です」と何のためらいもなく素直に答えるだろう。ある土地を好きになるには、そこの食べ物が好きなことが絶対条件だと言うが、ぼくはポソレをほおばるにつれ、ひとりでその言葉に大きくうなずいてしまう。そんな深ーい思い入れあふれるこの料理に、オアハカ初日から再会でき、まずは6年越しの願いが一つかなえられたことになる。にくいまでの夫人の演出にただ感謝だ。

  


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