第九話 「どうしてこんなに自然なんだろう?」――グスマン家ダイニングで

老犬ブロンディーは生きていた!でももう歩けなくなってよぼよぼだ。

 長い間くすぶっていたメキシコ料理に対する食欲は、とりあえずポソレで満たされた。だから今度は落ち着いてグスマン夫人といろんなことを話す番だ。長テーブルの端と端に座り、ぼくと彼女は遠いけど正面に向かい合っている。ゆっくりとしたテンポで、はっきり話すスタイルは、以前と同じだ。スペイン語を勉強し始めた頃、辛抱強くぼくの話を聞き、分かりやすく噛み砕いて話をしてくれる彼女にどれくらい上達を助けられただろう。

 「8月の初めには、イタリア人が2人来たよ。それから日本人の大学生が1人来たけど、この人が変わった男の子でね、振りまわっされぱなしだったよ」

 ホストファミリーを10年以上もやっているこの家にとって、夏はいろんな国の学生が次々と訪れ、最もにぎやかな季節となる。明日になれば、新たに4人のアメリカ人がホームステイに来るという。つまり偶然集まった外国人が、ぼくらを入れて7人も、一つ屋根の下家族としばらく生活を共にすることになる。

 「でも、学校の方が頼りなくてね、その人たちが何時に来るのか、本当に予定通り明日着くのか、はっきりしないのよ...」

 そんないい加減な約束でも、夫人は部屋をきっちり割り振り、床にモップを丁寧に掛け、丹念にベッドメイクをして学生の到着を待っている。そんな律儀で几帳面なところも変わってない。

 ぼくもオアハカに来てこの家族にお世話になった、そんなたくさんの学生の1人だ。だけど1ヶ月ぐらいで去っていく人が多い中、ぼくの場合は同じ敷地内にある、すぐ隣の家に2年間も住みついてしまった。今は隣同士を隔てていた壁が取り払われ、キッチンを奥に抜ければ、以前ぼくが住んでいた家の小さな中庭に抜けられるようになっている。

 週末になると、よくその小さな中庭で、バケツを使って洗濯した。晴れた午前中には、よくプラスチックの白い椅子を出して小説を読み、ギターを弾いたりした。でも今その場所は新しい犬の棲家になっている。若い中型犬「トゥーサ」は耳が垂れた褐色の洋犬で、ぼくが近づくと木枠に前足で寄りかかり、尻尾を必死に振った。小型の老犬ブロンディーも、その囲いの外で黙ってうずくまっていた。ぼくが住んでいた頃からいるこのばあさん犬は、もう前みたいには自分で歩けなくなってしまったけれど。その中庭から扉を入れば昔ぼくが寝泊りした部屋になるが、そこは現在末娘のイルマと夫人の寝室になっている。

 今回ぼくらは、ダイニングに面したすごく便利な部屋に泊まる。バスルームが隣にあり、パジャマのまま出入りしても誰にも会わずに済むようになっている。そこは夫人が旦那さんの生前、夫婦で使っていた部屋で、家族にとってもぼくにとっても特別な場所だ。そんな最高の場所で、4回だけぼくらは朝を迎えることができる。

 「ねえ、ところでお父さんとお母さんは元気にしてる?それから...」

 夫人は、ぼくの家族や友達のことを全部憶えていて、ひとりひとりの名前をあげながら、みんなの様子を知りたがった。両親も含め、ぼくのまわりでこの家族に会った日本人は、実に6人もいる。ぼくが暮らしていたときに友人や両親が会いに来てくれたり、メキシコに旅行に行く友人に家族を紹介したこともあった。夫人は楽しそうに、タケはおかしな人だったね、え、ナオにはもう子供が3人もいるの?――と目を細めて思い出すのだ。そしてアチャはそんな「オアハカ仲間」の記念すべき7人目となる。

 夫人のゆっくりした語り口に対し、ぼくの方はあれこれ話したくて相当早口になっていたみたいだ。今回の夏休みは無理をしてでも来ておきたかったこと、ロサンジェルスで飛行機に乗り遅れて予定が狂ったこと、時間にルーズな航空会社に腹を立てたこと、そして結果的にオアハカにいられる時間が少しだけ少なくなったこと。

 でも久しぶりにフル稼働させるスペイン語はこんなときに限って何度も立ち往生した。話したいと思うスピードについていけず、ぼくの言葉は錆びかけのエンジンみたいに空回りする。口から出ない単語を必死で探すのは、パソコンでファイル検索するみたいで何とももどかしい。見つかったり見つからなかったりするのだ。でも無理やりエンジンを回しているうちに、ようやくことばはスムーズに流れ出した。

 「明日からはいろんな友達に会うつもりだし、ぜひ行っておきたい村もある。そして週末にはもうメキシコシティーに行かなくてはならないんだ。日本に着いたら次の日はもう働いてるんだよ、信じられる?」

 そうこぼしながら、そんなハードスケジュールを全く苦にしていない自分に気づいて吹き出しそうになった。ただ、「今」は来て良かったということしかない。帰ってから「後」のことはどうにでもなる、いや、どうにでもできるんだから。

 お茶を飲みながらそうやって夫人とあれこれ話しているうちに、ある奇妙な感覚がぼくを満たし始めた。この感覚は今回のオアハカ滞在中ずっとぼくの中にあって消えなかったものだ。

 どうしてこんなに自然なんだろう?

 どうしてこんなにここにいることが当たり前に感じられるんだろう?

 オアハカを後にして6年、遠く離れた日本という国で働いてきた。想像以上に休みは短く、メキシコに来ることを半ばあきらめながら暮らした。出張でいろんな国に行った。結婚もした。たくさんの変化やできごとがぼくを駆け抜け、オアハカは淡くて頼りのない思い出となりつつあったのだ。だから、6年間の不在で、オアハカとぼくの間に埋めようのないすき間が生まれ、以前のようには決して馴染めないのではないかと正直不安だったのだ。

 でも、やっとたどり着いたこのダイニング、長いテーブル、天窓からの光、乾いた空気、キッチンからの野菜スープの香り、そしてグスマン夫人の落ち着いた話しぶりがぼくに与える印象は、あまりにも変わっていなかった。遠く離れた別の空間で同じだけの年月をたどり、ぼくの知らないこともたくさん起こったはずなのに、すんなりとぼくの体温はここの空気に溶け込んでいるようなのだ。限りなく繰り返されるオアハカの日常に、あっけなくぼくは吸い寄せられ、ごく当たり前のように参加している。

 ぼくは本当にここにいなかったのか?

 それとも本当はずっとここにいたのではないか?

 何かの拍子でパラレルワールドに滑り込んだような錯覚を覚えながら、以前何度となく座ったこの席に、ぼくはまったく「いつものように」座り、「いつものように」夫人とおしゃべりしている。

  


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