第17話 「エピファニオおじさんと幼すぎる職人」

(今回のエッセイ中にはカエルとウサギのアレブリヘスが隠れています!
見つけてやってね)

ズラッと並ぶ珍作、奇作の数々。これだけ並ぶと壮観だ

 国道から枝道へそれて行き着いたサン・マルティンは、何の変哲もない小さな村に見えた。シンプルな石造りの家屋がぽつりぽつりと並ぶひっそりとした村。でもその家々の軒下では、職人たちの想像力が「木」を通して鮮やかに花を開く。幻想と現実の間を行き来する動物たちが、太陽を白くはね返すテラスの上でゆっくりと命を宿すのをぼくらは目の当たりにしたところだ。

 アンヘレス家の他にも、アレブリヘスの大家とされる家族がこの村にはいくつかある。中でもフエンテス家で作られる作品はその斬新なアイデアで国外からの評価も高い。24歳の若さでアレブリヘス界を一気に駆け上がったセニー・フエンテスは、奔放な才能に任せ独創的な作品を生み出し、ヨーロッパ、アメリカなどでも個展を開く新進気鋭の若手作家だ。

 ぼくらがフエンテス家を訪ねたときセニーは留守だったが、彼の家族に会うことができた。広い中庭を横切り軒先まで歩くと、長机の上に膨大な量のアレブリヘスが――大小合わせて150いや200以上はあるだろうか――並べられている。その後ろでは、家の壁を背に初老の男が黙々と木を彫り続けていた。よく日焼けした肌に白いTシャツを着たこの男がセニーのお父さんだ。

 「エピファニオさん、お元気でしたか? 今日は日本から友だちが来てるんです」

 ガブリエルが声を掛けた。

 「やあ、ガブリエルか。セニーはもうすぐ帰ってくるから、それまで作品でも見ていてくれないか?」

 昔気質で寡黙な職人をそのまま絵に描いたような人だ。実はこのエピファニオおじさん、動物しかモチーフにされていなかったアレブリヘスに、初めて天使や聖母などを取り入れた人なのだ。顔に刻まれた皺、垂れかかった大きな頬、ぶ厚い手、そしてしわがれた声は言葉少なに短く響く。

 「最近は材料が取れなくなってきてね、高いから違う素材を使ったりして工夫しているよ」

 コパルが少なくなってきたため、代わりに杉を使って彫られた作品がいくつかあった。中でもエピファニオおじさんの手による人魚は、その仕上げと表情のやさしさでぼくらの目を釘づけにした。アチャは100以上もあるアレブリヘスの中で、最後までこの人魚が1番好きだと言い続けた。

 フエンテス家の作風はデフォルメの度合いが強く、遊び心満載だ。コミカルで、見れば見るほど笑いがこみ上げてくる。ぼくらは好きな作品をあれやこれやと相談しながら選び始めた。キオの運営するホームページに載せるための仕入れだ。ユニークで他にないもの、見ているだけで楽しくなるもの、そんなコレクションを選りすぐるため、ぼくらは3人のうち2人以上が良いといったものを買うことにした――。

 陳列台の半ばに置かれた大小さまざまのカエルたちは、なぜか手をぐーっと前に伸ばしすぎて、余ったからそれを前で交差させている。カエルと言うよりはストレッチ体操をするテナガザルじゃないか。手の甲をさすっているようにも見えて、まるで誰かにごまをすっているかようだ。これはハコボの作品にはなかった身体の根本的デフォルメだ。色はどぎつい青や緑、さらにポップな水玉模様が付いて、こんなカエルが実在したら相当毒々しくてぼくは近寄れない。

 魚たちの大きすぎる胸びれが、なぜか縦に地面に向かって伸びている。そして何と、その長く伸びた巨大ひれで自らの体を浮かせて立っているのだ。もしかしたらこの魚は山に棲み、ひれで歩くように進化した内陸動物なのかもしれない。おまけに背びれもとんがって上に伸び、まったくこいつは横より縦の方が長く、見れば見るほど2本ひれ歩行に適した形をしている。胴体は筒状に丸く、その常識破りのアンバランスさにぼくらはただにやけてしまう。

 濃い緑色をしたウサギは鳥の羽の形をした大きすぎる耳をしている。だけど「ウサギ」と言うにはものすごく違和感がある。ぼくはその理由をずっと考えていたが、どうも目と口に決定的原因があるようだ。長くて大きな円い目は、まったくもっていやらしくたれているのだ。大きく裂けた半開きの口は今にもよだれが垂れそうにニヤニヤ笑っているのだ。存在自体がぬぼーとしていて相当怪しい。ウサギのくせに動きも鈍そうで、どっしり腰を下ろし、跳ねたり走ったり絶対しそうにない。こんなウサギ、飼っていたら意味不明なことを夜な夜なつぶやきそうでちょっとペットにできない。

 ここの動物たちは、街で見たアレブリヘスにはない人懐っこい表情があった。それぞれの木が偶然持った曲線を最大限に生かす工夫がされていた。奇抜な発想に笑わされながら、いつの間にか買いたい作品の候補が10体以上になってしまっている。ぼくらがワイワイと選んでいる間、エピファニオおじさんは壁際で黙って木を削ったり、ときどきぼくらのところへ来て様子をうかがったりしていた。

 おじさんが作業台を立った後、小さな男の子がその椅子によじ登って座った。3歳ぐらいだろうか。彼はセニーの息子、つまりおじさんの孫だった。置きっぱなしになった彫りかけの木に向かって、自分の体の半分もある山刀を両手で持ち上げ、木にそれを当てようとしていた。重そうで、いかにも危なっかしい。

 「危ないから、やめなさい!」

 口々に大きな声がおじさんやおばさんから飛ぶ。手から刃物を取り上げても、男の子はその椅子から離れようとしない。逆に木しがみつこうとしている。

 「アレブリヘスを彫りたいんだよ、この子は」

 おじさんは、やれやれという表情をした。でもどこかうれしそうだ。ぼくは物心つかない頃からこうして職人の家でそこの空気を吸い、息遣いを覚えていく彼がうらやましくなった。ぼくらが話し掛けても恥ずかしそうに木の後ろに顔を隠してしまう。そんなシャイなやつなのだ。

幼い職人は相当なはにかみやだ

 作品を選び終わったちょうどその頃、幅の広い大きなアメリカ車が中庭まで土を踏みながら入ってきた。この男がセニー・フエンテスだ。エピファニオおじさんの息子で、この小さな男の子のお父さんにあたる。白いベースボールキャップをかぶった線の細いこの青年は、長い髪を後ろで束ねている。

 こんな車に乗って颯爽と入ってきた彼も、3歳の息子が今そうしているのと同じように、きっと幼い頃からエピファニオおじさんが木を彫る姿を当たり前のように見て育ったのだろう。そして16歳で初めて作品を世に出した。それから8年、技術と創造性を成熟させた彼の作品が世界へ認められるようになったのも、この家族を見ていると必然のことに思えてくる。世代を越えて伝えられてきた職人芸が、この家では常に進化し続けてきたのだから。

 帰る間際、広い中庭をなぜか本物の孔雀が横切った。昼下がりのサン・マルティンに忽然と現れた、この大きな鳥の深い青と緑を前に、ぼくはしばし自分の目を疑った。

 どうして、クジャクが?

 ゆったりとした足取りで家の裏側へ消えていったこの鳥は、不思議彫刻の世界に深く浸かリすぎたぼくが、勝手に作り出した幻だったのだろうか。それともやはり現実だったのだろうか。

  


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