第21話 「夜と花と女性の関係」

金曜の夜、ぼくらはバーをハシゴした。
踊りたければ踊ればいい、飲みたければ飲めばいい。
左がアルトゥーロ、右はアチャ。

 キオとアチャが加わり、いっそうにぎやかになったぼくらのテーブルに花売りのおばさんが「ガルデニア」の小さな花束を運んできた。ガルデニアとは日本語でくちなしの花のことだ。ぼくとアルトゥーロ2人だけなら面倒くさそうに断るところだが、今は2人の女性がテーブルにいる。

 「いくら?」

 アルトゥーロがちょっとつっけんどんに聞いた。

 「20ペソ」

 花売りはいかにも近隣の村から出てきた風で、前掛けをして黒髪を後ろで三つ編みにしている。もちろん1束の値段を言ったのだがアルトゥーロはとぼけて聞き返した。

 「2束で20ペソだよね?」

 いいえ1束ですと言う花売りに、今度は少し強い調子で「2束20ペソでいいでしょ」と言った。花売りは少し顔をそむけてふてくされた顔をしたが、結局2束20ペソで花を置いていった。

 ぼくと2人で10ペソずつ出し合ったガルデニアの花束は、キオとアチャそれぞれにアルトゥーロから手渡された。唐突だけど2人への小さな贈り物だ。2本の花を茎のところでくくってあるだけの小さな花束だけど、その芳香は甘くて強く、向かいに座るぼくにも十分届いた。受け取った2人は華やいだ声を上げながら顔をくっつけて香りを確かめている。女たちのこんなうれしそうな表情を見るために、男は花を買うんだ。そして当のアルトゥーロはそ知らぬ顔でもう違う話を始めている。花を贈ることに慣れていてあまりにさりげない。

 デル・ハルディンでしばらく話した後、ぼくらは違う店へ移ることにした。少し寒くなってきた、屋内で音楽の聞けるところを探そう、そんな話になったのだ。そう言えば昼間に会ったフロールが、夜音楽を聞きたくなったら「エル・ソル・イ・ラ・ルナ」(太陽と月)に行けばいいと教えてくれた。そこは新しくできたバーで、サント・ドミンゴ教会のすぐ裏手にあるから歩いても10分ぐらいだ。あんまり遅くなると家に入れなくなるよと心配するぼくに、キオは「心配ご無用」と鍵をポケットから出した。どうせ遅くなるだろうとラウルが持たせてくれたのだ。グスマン家3男のラウルはいつもクールに装っているけど実は細かいところで気が利くヤツだ。

 アルトゥーロについてゆるやかな坂を上り始めた。もう人がまばらになってしまった夜のアルカラ通りだけど、アップテンポな音楽が所々から漏れて聞こえてくる。パーティーはいろんなところで進行中なのだ。ぼくらはぼくらなりの「パーティー会場」を目指し、石畳の道を並んで歩くだけだ。でも着いてみると、サルサが聞けるはずのその店は金曜だというのに閉まっていた。歩道から静まった中をのぞきながら、アルトゥーロは「太陽も月も出てないよ」と肩をすくめて笑った。ぼくらも笑った。また違う場所を探せばいいだけだ。いろんなところでパーティーは進行中なのだから。でも店の名前に「太陽と月」と付けるんだったら休まないで欲しいものだ。

 その足でぼくらはもう1つのサルサ・バー「カンデラ」まで歩くことにした。こうなったら生でサルサを聞かずには帰れない。こじんまりとまとまったオアハカの街は、こういうとき歩いてバーをはしごできるから便利だ。カンデラはぼくが留学するずっと前からある店だ。暗い道を5分ほど歩いて、サルサのリズムとボーカルのくっきりとした声が漏れるのを耳にして、やっとぼくらは安心できた。あんまり道が静かなので本当に店がやっているのか不安になるのだ。でもこの店はぼくらの期待を裏切らなかった。背の高いスーツ姿のガードマンに入場料を手渡しながら、ぼくは早く中に入りたくて仕方なかった。盛り上がっているのはぼくも含めたこの空間全部だ。

 ここはサルサやメレンゲの生演奏が毎夜繰り広げられるバーだ。もちろんダンスフロアがあり、周りにはテーブルがある。座って酒を飲むのかそれとも踊るのかは自由だ。でも客の半分ぐらいはバンドの演奏を前にステップを踏んでいる。「エル・グラン・バロン」の演奏が始まった。ウィリー・コロンの代表曲で、カンデラのお抱えバンドが昔から十八番にしてきた曲だ。細くて高い声を出すあの太目のボーカルが、まだここで歌っていることを知ってぼくはうれしくなった。選曲や客の入りや場内の熱気、どれをとってもそのままだ。

 ぼくらはメインホールから更に奥の席に通された。テーブルにはそれぞれが頼んだビールとカクテル、キオとアチャの花束、アルトゥーロの煙草。ぼくらはまたしばらく話をしようとしたのだが、バンドが演奏しているうちは隣のキオの声しか聞こえない。アルトゥーロが横にいるアチャに簡単なスペイン語で話し始めたのをいいことに、ぼくとキオは先に踊りにいくことにした。アチャ、語学は実戦あるのみだよ。ぼくらは待ちきれないから先に行く。

 ダンスフロアの中でもみくちゃにされながら、もしかしたら一瞬でもここでこうやってサルサを踊るためにメキシコまで来たのかも知れない、などと考えた。たった一瞬でいい、ここでこうやってツー・スリーの洗練されたリズムにのり、ただ音楽に身を任せるだけ。カンカン・カン・カン・カーン、脳が直接刺激される、カンカン・カン・カン・カーン。

 ベース、ギター、キーボード、トレス、パーカッション、クラベ、そしてボーカル。どうしてそんなに気持ちよさそうに歌えるんだろう?この口ひげの太っちょは、自分のハイトーンな声に酔いしれて歌っている。踊っている客たちもやっぱり酔いしれているし、ぼくとキオもいろんなカップルに背中をぶつけながらやっぱり相当気持ちよさそうな顔をしていたにちがいない。

 音楽に身体の動きをシンクロさせているうちに、サルサの小気味良いリズムは耳ではなく身体で感じるものに変わっていく。ぼくはまるで海の中で泳いでいるみたいだと思う。トレスやギターが奏でる旋律は熱帯魚のように鮮やかな原色で通り過ぎる、そしてフロアは海のように広い。ぼくらはふわふわと身を任せて揺れているだけ、鮮烈なリズムに合わせて音に浮かんでいるだけ――。

 席に戻ると今度はアルトゥーロがアチャを踊りに誘った。ここでは1人で踊ることや男同士、女同士で踊るなんてことは誰もしない。とにかく男が女を踊りに誘う、それが礼儀みたいなもんだ。だからアチャにとって踊るのが初めてだろうが、照れ屋だろうが人妻だろうが関係ない。女は相手が相当嫌いな男でない限り、断らずに一緒に踊りに行くのだ。3曲ほど踊って戻ってきたアチャは「貴重な体験をした」とうれしそうに席に着き、ぼくはその顔を見てつくづく連れてきて良かったと思うのだ。

 カンデラの夜は午前2時過ぎにバンドが演奏を終え、小さな音量のBGMと踊り足りない人たちのざわめきだけが残響していた。踊り始めたばっかりなのに本当に終わり?と、ウェイターにぶつぶつ言いながらぼくらは店を出る。外は長袖がないと寒いぐらいで、ぼくらはグスマン家のある方向へだらだらと歩き始めた。楽しかった夜もこれで終わり、ちょっと未練が残るけれど日付が変わって数時間がすでにたつのだから仕方がないのかもしれない。

 でもしばらく歩いていて、ぼくらはある建物の前で立ち止まって顔を見合わせた。例によって石造りの入り口から大音量で音楽が聞こえてくるのだ。まだまだここではパーティーが進行中だ。そしてもしできることならぼくらのパーティーもまだ終わらせたくない、そのとき4人みんながそう思っていた。

 「ちょっと待ってて、入れてもらえるか聞いてくる」

 すかさず中に入っていったアルトゥーロの大きな背中を、ぼくらは入り口で見送った。中にはまだまだ客がいる。

 結局ぼくらはその「フォルタレサ」というバーで、バンドの演奏が終わるまで飲み続けた。観光客がちらほらいたカンデラよりも、ずっと濃密で危うげな地元限定的雰囲気がぼくを喜ばせる。演奏されているのはトロピカルと呼ばれる音楽で、安っぽいキーボードの電子音が哀愁のあるメロディーを単調なリズムにのせてたどっていく。こんなふうに生演奏が聞けるバーを、メキシコでは最近「アントロ」、つまり洞窟と呼ぶらしい。フォルタレサのテーブルから吹き抜けの天井を見上げていると、本当に大きな石の洞窟の中にいるようだ。

 ほの暗い灯りの中で腰をくねらせる黒いドレスの女の子は、長いソバージュの髪をかきあげて妙になまめかしい。どこまでもここの熱気は冷めそうにないし、音楽も鳴り止まない。一度は消えかけたろうそくの火がまたしっかり燃え出したみたいに、偶然行きついた「洞窟」でぼくらはまたビールやカクテルを飲み、そして踊った。

 入場後しばらくしてからウェイターがぼくらのところへ来て、小さな空き瓶をテーブルの端にちょこんと置いた。どうやら彼は、キオとアチャが大切そうに運んできたガルデニアのために、水を入れて持ってきてくれたらしい。この国の男は女と花にとことんやさしい。そしてその小柄なウェイターは、黙って瓶に花を挿し、にっこりと白い歯を見せたのだ――たとえ朝が来てもしおれぬように、決してその香りが消えてしまわぬように、と。

  


このページのトップに戻る

エッセイコーナーのトップに戻る

トップページに戻る