第26話 「タクシー運転手の副業は」

タイルの家は市内の中心部に鮮やかに現れる冷たくて美しい青だ。

 「どこまで?」

 少ししゃがれた声で、運転手が短く聞いた。助手席に座ったぼくはその無愛想な声に少し不穏な空気を感じた。

 「コロニア・アンスレス」

 ぼくも行き先を短く告げる。できるだけ大きな声で。運転手はぼくが乗ったときから印象が悪い。無精ひげをはやし、窓に肘を掛けたままそっぽを向いていて、話し方には客に対する丁寧さや礼儀なんかが欠けている。まるでチンピラだ。ぼくは話す気にもなれずに、タクシーのチケットを突き出した。さっきカウンターで買ってきたやつだ。運転手は面倒くさそうにその紙切れに目をやる。

 「ちょっと、このチケットじゃそこまで行けないよ」

 「えっ?」 

 車はすでに走り出している。空港からのタクシーは前払い制で、「Aゾーン」や「Bゾーン」などとカバーする距離が記載されたチケットをカウンターで買うことになっている。だけど急いでいたぼくは地図で「コロニア・アンスレス」がどの「ゾーン」に入るのかという細かいチェックを怠った。そして運転手はぼくのチケットが目的地までの距離をカバーしていないと言うのだ。でもカウンターの職員が間違うことなんてあるだろうか?

 「そんなはずはない。ちゃんと行き先を告げてカウンターで渡されたんだよ」

 ぼくはそう言いながら運転手の出方をうかがった。ここはちゃんと食い下がろうと決めた。

 「これじゃ行けないから、このまま走って追加料金を払うか、それとも一回空港に戻ってチケット買いなおすか、どっちかだ。どうする?」

 空港前にはものすごく車線の多い、まるで大きな川のような道路が横たわっている。そこで流しのタクシーは停車してはいけないことになっているから、たいていの旅行者は空港専属の黄色いタクシーに乗るしかない。地元の人はそれでも少し歩いて安い流しタクシーをつかまえるんだろうけれど、ぼくはあまりそういうところでお金を節約して時間を犠牲にする気はなかった。ぼくの乗ったタクシーはそのだだっ広いまっすぐな道を他のタクシーや自家用車に混じって走っている。相変わらず回りはフォルクスワーゲンのビートルが多い。

 「どうするも何も、そのチケットで絶対に間違いないはずだ」

 こんなチンピラのような運転手に「はいそうですか」と納得のいかないまま追加料金を払う必要はない。もし本当にチケットが間違っているとしたら、ちゃんとカウンターまで戻って問題を解決するべきだ。ぼくはだんだん腹が立ってきた。早くレイコさんの家に行って待ってくれている2人に会いたいのに、タクシーはぼくを乗せたまま空港に戻るか、余分に金を払うかの選択を迫っている。

 「いいよ、そんなら、空港に戻ってよ。そこではっきりさせようじゃない」

 大きな声になってしまった。少し頭に血が上っていたのだろう・・・。

 空港前の道路をかなり乱暴に突っ走ってから、てっきり運転手は迂回する道を取るのだと思っていた。自分で言うのもおかしいが、ぼくはかなり方向感覚がない。ましてメキシコシティーは住んだこともないから、車がどこを走っているのかよく分からない。つまり行き先を告げれば後は運転手任せなのだ。でもどうやら車はこの大都市の中心部へ進み始めたようなのだ。引き返すべく道を大きくそれる様子はない。一体どういうことだろう?一方通行が多いから少し複雑な道を選んで空港に帰っているんだろうか。ぼくはチケットカウンターに着いたら大騒ぎしてやろうとたくらんでいた。

 どんどん車線を変更しながらスピードを上げる車の助手席で、ぼくは仕事で頻繁に行くインドのことを思い出していた。いろんなところでいろんな手口でだまされたし、だまされそうになってそれを何とか阻止した。じかにお金をすられそうになったこともあった。そんな泥棒めいた人たちはたいてい人の良心をうまく利用して、限りなく姑息だ。子供を使ったり、宗教のお布施を絡めたりして、金をふんだくろうとする。金を取られる段階になっていろんな仕掛けが初めて分かったりする。タクシードライバーがだます手口もたちが悪い。いろんな口上を駆使して外国人からぼったくろうとする彼らには、あきれかえってしまって最近は怒る気にもなれない。「雨でこの道は通れなくなったから」とか平気で嘘をついて遠回りする。そして法外な値段を要求してくる。そんなときには身体に危険がない限り断固とした態度で強く出るしかない。

 車は一体いつになったら空港に戻るのだろう、やっぱり「はったり」だったのか――。

 かなり走ってから運転手が何も言わずに目的地に向かっているのを知って、ぼくは勝利を確信した。ちょっと性悪なこの男は、だますのをあきらめて真面目に仕事をこなす方に方針を変更したのだ。後は車を降りるときに支払いを請求されるかも知れないので、それを阻止する策を考えておけばよい。ぼくはちらりと左を見る。運転手は片手でハンドルを器用に操り、道行くたくさんの車の間をかいくぐりながら、ぎりぎりの車間距離でアクセルを踏み続ける。左ハンドルの車で日本の運転席にあたる位置にシートベルトもせずに座っているもんだから、ぼくは思わず右足で空のブレーキを踏んでしまう。男は相変わらず窓に肘を掛けたままぶすっとしているが、運転はめちゃくちゃうまい。

 前払い制の空港専属タクシーで、運転手が給料以上に金をもうけるには乗客をだますしかないのだろう。相手が外国人なら迷わずこの「副業」を実行する。――しめしめ、外国人が乗ってきた。間違いなく今日は多めに「チップ」をいただけるぞ――と意気込んでいたこの運転手は、逆にスペイン語で応酬に合い、黙って目的地まで走ることになってしまった。どうやらそんなところらしい。「世の中そんなに甘かないよなー」と心の中で少々嘆いたかも知れない彼に、「こんなのインドに比べたらかわいいもんだよ」と、ぼくも心の中でつぶやいた。性悪そうな顔の裏側からトホホというため息が聞こえてくるようだ。それにしても国際空港専属のタクシーが客をだますなんて、ちょっと信じられない。

 ようやくレイコさんから聞いていた目印のスーパーマーケットが見え、運転手は「あの建物だよ」としゃがれ声で吐き捨てるように言った。結局車は空港には引き返さなかったし、引き返さないことに関して彼は何も言い訳しなかった。ただ黙って気まずい運転を続けただけだった。

 「この道は一方通行だから、あの建物まで自分で道を渡って行ってくれないか」

 ちょうど信号を待っていたところだったので、ぼくは素早く車を降りた。もちろん追加料金は請求されずに済んだ。――残念だったね、お疲れさまという感じだ。

 学生の頃のぼくならこんな運転手にあうと、もっと焦っていたところだが、今回の小さな詐欺未遂事件に限って言えば自分でも驚くほど落ち着いて対処できた。少なくとも言いなりになって意味のない出費はしなくて済んだし、目的地にもちゃんとたどり着けた。結果だけ見ると運転のうまい運チャンにあたって、込んだ道を猛スピードでごぼう抜きできてラッキーだったということになる。実はこんな自分の「成長ぶり」がうれしい反面、これも「年の功」なのかなとしみじみした気分になったのだ。

  


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