第1話


寸胴のとうもろこしは約八時間掛けて仕込まれる。

 滞在先のグスマン家で夜十一時といえば、みんな自分の寝室に戻ってテレビを見たり早い人は寝てしまう時間だ。僕はしんと静まり返ったダイニングを抜け、夜の町へそっと足を踏み入れた。ソカロの方へ向かって八分ほどインデペンデンシア通りを歩くと、左に小さな店の入り口が見えてくる。「カフェテリア グラントルタ−−ポソレ トルタ タコス」と書かれた小さな看板。

 中では店員の女の子四人が片付けに忙しく動き回っていた。浅黒い肌をした三人と白い肌の一人。黙ってよく働く。店内のフロアーは二つに分かれていて、入り口からすぐのフロアーには厨房とテーブルが四つ、奥にもう一つ小さな部屋があり、そこにさらにテーブルが四つ。客席と厨房の間はよく肉屋で見かけるようなガラスばりの冷蔵庫で仕切られているだけだ。その中にはラディッシュやにんじん、レタスなどの野菜のほか、豚肉のかたまりやケシージョと呼ばれるオアハカ特産のストリングチーズなんかが並んでいる。

 片付けの邪魔にならないようこまめに身をかわしながら僕はおじさんに声をかけた。

「やっと来たんか?」

 エウセビオさんは夜中なのにばかでかい声を出して、僕を厨房に招き入れ、すぐにとうもろこしがぱんぱんに詰まったビニール袋を取り出して説明を始めた。
待っていてくれたみたいだ。

「これがポソレ用のとうもろこしや。さわってみ、固いやろ?この外側の皮を取り除くためにこれから石灰の粉といっしょにゆでる」

 おじさんはひざあたりまである寸胴を床に置き、とうもろこしをばらばらと中に入れ始めた。乾燥したとうもろこしの粒は鍋底にあたるとカラカラと甲高い音を立てた。大きな音だ。そこにバケツで水を注いでから、石灰を溶いてどろどろになった水を加える(とうもろこし五キロに対し水は十五リットル、石灰水適量)。ポソレに使われるカカワシントレというとうもろこしは、日本のとうもろこしより実がふた回りも大きく、当然その外皮は分厚い。まずはそれを取り除く作業から始めるのだ。水が沸騰してから約一時間で皮ははがれやすくなる。そしてその皮を洗い落とす。

 乾燥したとうもろこしが徐々に水を含んで膨らんでいく一時間のあいだ、おじさんにいろいろと話を聞くことにした。何しろ今回は「取材」でお邪魔しているのだ。僕らはテーブルの一つに腰を下ろした。まず何よりも僕が知りたかったのは、店名の由来だ。「グラントルタ」の「グラン」は「すごい」とか「どえらい」というような意味で、「トルタ」は固めのパンに、ハムやチーズを挟んだファーストフードのことだ。アメリカ風に言えばハンバーガーだが、具がハンバーグとは限らないのでイタリアのパニーニの方により近い。「すごいトルタ」とうたっておきながら、店の看板メニューは誰がどう見てもポソレで、トルタを注文する人を僕は見かけたことがない。

「一番人気があるんはポソレやのに、何でグラントルタという名前がついてるんか。それを知りたいっちゅうわけか?」
「そうそう」
「ほなら、昔のことから話さんとあかんな……。もともとこの店は俺の母親とおばさんが四十八年前に始めた店でな、そのときは確かにトルタばっかり売ってた」
「それが何でポソレ屋さんみたいになったん?」
「まあちょっと待ち。俺がこの店を手伝うようになった時の話からさせてくれ。
俺な、グアダラハラで何ヶ月か畜産を勉強してたことがあるんよ。今から二十三年前、まだ若かった頃の話や」、かみしめるようにゆっくりとした口調でおじさんは語り始めた。なんだかうれしそうな顔をするので、僕もふんふんと前のめりに聞き入ってしまう。

「その頃、毎晩飽きもせずに通ったピングイノっていうレストランがあってな、
そこのポソレの味に惚れてしもた。俺も一人で行ってたもんやから、経営者の夫婦と仲良くなって、オアハカに戻る頃には作り方まで教えてくれるようになった」

 ピングイノという名前を聞いて、僕はふき出しそうになった。ペンギンなんてこのこてこてしたおじさんにはあまり似合わない。

「それからはもう、畜産なんてほったらかしや。オアハカに帰ってきたら、早速お店でポソレを出そうって提案した。せやけど母親もおばさんもそんなん売れるはずない言うて全然相手にしてくれへんかった。ただ俺は絶対自信があったから負けずに押し通したんや」おじさんは話しつづけた。

「それで?」
「それで、やっと店でポソレを出すようになったら、ちょっとずつやけどな、ほんまに売れ出した。まだオアハカにはポソレを出す店がなかったからな−−」
 僕はこんな話が大好きだ。故郷を離れた土地で人と出会い、人生の運命を大きく変えたポソレにめぐり合う、そうしておじさんは回りの反対をものともせず成功を勝ち取ったのだ。

「今となってはグラントルタっていうのは名前だけで、ポソレが一番売れるようになったっちゅうわけや」

 従業員の女の子たちが椅子をテーブルの上に上げ、床をモップがけし終わった頃、ぼくらはまた厨房に入った。そろそろとうもろこしの皮が柔らかくなってきているはずだ。石灰の効果で洗うと簡単にその黄色い皮ははがれ落ちた。そしてさらに大きな寸胴に水を張り直し、これから朝までとうもろこしを八時間煮続ける。「水の量は?」と聞く僕に「この線までや」とおじさんは寸胴の中を指差した。長年使いこんだ寸胴は、ちょうど水を入れるレベルで濃淡がくっきりついていた(うーん、これでははっきりと量が分からないがまあいいか)。

「日本で店出したいんか?」、おじさんはライターで火をつけた紙切れを大きな業務用コンロに近づけた。ぼっと音がして点火し、その熱が顔に届く。

「ええ、まあ、そうなればいいんですが、まずは練習しないと……」
「ほなら、ちゃんとここで作り方おぼえていって、東京で店が軌道に乗ったら俺を招待してくれ」
「……はあ、努力します」

 僕はおじさんにそんな大それたことを約束はできない。だけど、せっかく教えてもらうのだから、それぐらいの気概がないと失礼にあたるだろう。たとえ実現しなくても、だ。

「明日午後三時から、今度は肉の仕込みをやる。来るか?」
「もちろんです」

 おじさんは僕に本気で料理を仕込もうとしてくれている。グラントルタ二号店を日本でオープンするというシナリオが彼の頭の中ではできあがっているのだ。深夜十二時を回った頃、僕はおじさんとグラントルタの狭い厨房の熱気にのまれて、いつのまにか日本人初の弟子となっていた。


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