第6話

営業中店に行っても超忙しくて
なかなか声がかけずらい師匠
シルビオ通信

しかし、還暦を迎えた年に僕はあえてギターを買わないかとすすめました。たまたまメキシコ人の友だちが職人手製の素晴らしいギターを僕に紹介してくれたのです。共鳴板の穴の部分がこりにこったハート型(メルヘンチックというよりはシャープな)で、ナカル貝による細工があまりに美しいものでした。低音がびりびりと響くそのギターを、父が弾いているところを僕はなぜか想像しました。そしてそれをきっかけに何と二十年ぶりに父がギター弾きとして復帰したのです。クラシックの名曲を数曲思い出して弾けるようになると、もう家ではギターを常にかき鳴らすようになりました。そしてしばらくして今度はジャズを習い出した。実は僕の弟はジャズギターを習っていて、その影響で即興に代表されるジャズの自由度に惚れ込んだようです。クラシックからジャズへの転向。聞いたこともないことが今僕に最も身近なところで行われています。(つづく)

 グラントルタには一人だけ肌のものすごく白い女の子がいる。小柄だけど若くてよく働く。仕事中はほとんど話さないので声もほとんど聞いたことがない。黒い髪でいつも白いエプロンをしている。一所懸命働いていて、おとなしい。僕は今回のオアハカ滞在で初めて彼女に会った。前回二年前に来たときにはいなかったスタッフだ。「新しい店員でしょ」ときく僕におじさんが「俺の奥さんやで」とショッキングな告白をしたのは確か土曜日のことだった。

 おじさんは五十二歳で、すでに十八の息子がいる。奥さんは二十四……。

 ま、いいか、メキシコだし。事業家のおじさんと若くて美人の奥さんのカップルなんて、どこの世界にもよくあることだし。 トルティージャの機械を買って、そんな奥さんを拾い、動かなかった車を無理やり動かして、僕らはグラントルタに向かった。車内は直射日光をもろに浴びていたせいで蒸し風呂状態だが、僕以外の二人はそんなこと関係ないみたいに、やっぱり恋人同士のように話しつづけていた。エプロン買ったんやで。え、ほんと? うれしい。グラントルタのネーム入りや……。

 店に着いた僕らは、さっそくトルティージャマシーンを箱から取り出し、一通り洗い流すと、おじさんがマセカを取り出した。「マセカ」はトルティージャを作るための粉で、僕はこれでどうやって生地を作るのかを覚えなくてはならない。

「せっかく機械買ったのに使い方が分からんかったら意味ないもんな。ちゃんと生地を作って実験してから日本に帰らんとな」おじさんは、いつのときも手早く仕事を進めながら話す。

 いつのまにかただの粉だったマセカが水を加えると器の中でパン生地になっていく。結構力を入れている。

「ほら、このぐらいの固さになったら、後は焼くだけや」

 ものすごく適当で僕は何を覚えればいいのかよく分からなかったけど、手で触った感触はもちっと冷たくやわらかい。たぶんそれさえ知っていればいいのだ。師匠は粉何グラムに対して水が何リットルというふうに数字で覚える人ではないから、その渡された生地の感触を身体で覚えるしかない。水の加え方もかなり感覚的だ。

 でもここで何だか師匠の様子がおかしくなってきた。僕にあんなに勧めたはずのトルティージャ・マシーンがうまく機能しないのだ。ローラーで生地を延ばし、出てきたはずのトルティージャは、手で受けるとぼろぼろと破れてた。

「あかん、これはおまえには難しいかもしれんわ。もっと生地を寝かして、それから機械を使わんと」
ということは持って帰っても無駄ですか?」
「やり方をきっちり知ってないと、使いこなすのは難しいかもな」

 僕はこのマシーンを買うにあたり相当な決断をしたつもりだ。まず日本円にして八千円という価格。そして何より持ち運びに不便な重さとサイズ……。それでも買ったのはつまりグラントルタで直接使い方を教わって帰りたかったからだ。しかしおじさんはすぐに解決策を提案した。

「よし、俺がこれ買い取るわ。おまえは別のプレス式のを探して買って帰り」
「師匠はこの機械をどうするんですか?」
「家で使う。もともと欲しかったんや」
 本当にこのトルティージャマシーンを家で使う予定があるのか僕には見当もつかない。でもきっと奥さんが取っ手をくるくる回して使うんだろう。そう信じたい。そうでないとしたら僕のために高い機械を買い取らせてあまりにも申し訳ないからだ。

 いくつかやっているうちにトルティージャらしき円いものができてきた。それをコマルと呼ばれる黒くて円い鉄板で焼く。湿った生地がくっつかないようにするには石灰水を延ばしておけばいいらしい。

「よし、食べろ」

 焼き立てのトルティージャをいきなり渡され、熱いまま口の中にほうり込んだ。具も何も入っていないのに、焼き立てだというだけでほくほくと食べられてしまう。日本で言えば炊きたての白米も同じだろう。

「せっかくトルティージャを焼くんやから、タコスも覚えていったらどうや?」

 ポソレのある店にはタコスがよくメニューに並んでいて、グラントルタにもおいしいタコスがある。

「ここのタコスうまいんですよね。カルニータ〈牛肉タコス)、この前食べましたけど」
「そやろそやろ。よかったらな、この後三時からカルニータ仕込むさかいおいで」
「ほんとにおいしいからねカルニータは」、僕は思いもかけずタコスまで習えることになりうきうきとした気持ちになっていた。

「ついでにポジョ(鶏肉)もやるからな。三時やで、ええか」
「じゃ、また後で来ます」

 おじさんも、白い奥さんもにっこり笑って見送ってくれた。またもや僕は二時間後にグラントルタにやってくる。ここまでくれば本当にグラントルタ二号店を開くことを視野に入れなくてはならない。

 再度僕がグラントルタの厨房に戻った頃、すでに店内ではスタッフの女の子たちが忙しく開店準備をしていた。床を掃く、野菜を刻む、肉をほぐす。それぞれがそれぞれの役割をしっかりと把握していて、エウセビオさんに指示を仰ぐことはほとんどない。無口で表情はちょっと無愛想と言えるかもしれない。

 午後三時、僕はもう我が物顔でずかずかと厨房に入っていった。

「用意はええか?」
「はい、カルニータ教えてください」

 師匠は僕のことを待ち構えていた。開店準備をするにあたり、やるべきことはたくさんあるはずだ。僕はそんなせわしない空気の中で、タコスの作り方をちょっとしたすきを見つけて教えてもらうのだ。

 タコスと聞くと、タコシェルに入ったキャベツやらトマトやらチーズの入ったぱりぱりのものを想像する人が多いかもしれないが、そんなものメキシコではあまりお目にかかれない。あれは多分テキサスやロスを経由してアメリカナイズされたものが入ってきているだけで、僕のイメージとはほど遠い。

 メキシコでタコスと言えば、柔らかいトルティージャの中にさまざまな具を詰めた、あつあつのものだ。屋台では真中が少し盛り上がった円盤状の鉄板で肉を焼き、トルティージャに火を通して食べるが、グラントルタはタコスの専門店ではないから、独自の方法でタコスを作る。おじさんはそのオリジナルレシピを僕に伝授しようとしてくれている。

 厨房の一番端は、入り口に面していて、そこに大きな黒い鉄板がある。 ちょうどお好み焼きで使うへらと同じものを二つ持ち、器用にたまねぎのみじん切りを炒め始めたおじさんは、どんどんほぐした肉や調味料を加えていった。じゃーじゃーと肉汁がはじける音がして、それにつられて途中何度か通行人が立ち止まり、店は開いてないのかと尋ねていった。しかし、おじさんはあいも変わらず「六時から」とかたくなに拒んだ。

「絶対客は戻ってくるから」

 長年の経験に基づいた自信である。


カルニータのタコスは最高だ。ところでサルサハポネサって何?

 豚肉はポソレ用に煮こんだ肉をほぐしたものを炒める。ポソレとタコスを同じ店で出すのはすごく合理的だ。シーズニングスパイス、にんにくと塩、サルサ・イングレッサ(直訳するとイギリス風ソース)、サルサ・ハポネサ(和風? ソース)を加えながら炒めていく。それは一瞬の出来事だ。もともと火が通っている肉なので、たまねぎや調味料を使って味付けするだけなのだ。熱い厨房に肉とたまねぎの香りが充満し、修行中の身でありながら僕は食欲を多分にそそられてしまう。

 トルティージャの火の通し方。特製の油を円形のトルティージャの縁にぐるりと塗る。油には塩、にんにく、たまねぎがジューサーでブレンドされている。油が縁にだけこっそりとついたら鉄板で火を通す。しかし鉄板にトルティージャをのせるときにも厳格なしきたりがあった。

「トルティージャには皮が厚い面と薄い面がある。その熱いほうから焼いていく」
「え、トルティージャってどっちの面もおんなじじゃないんですか」
「いや、ちゃんと裏表がある。それを絶対に間違わんようにしてくれ」

 衝撃の新事実にあっけにとられている僕に、師匠はすかさず「ほれ、食え」と出来上がったカルニータのタコスを四つ差し出した。

「いいんですか?」
「ええから早う食え、熱いうちが一番うまい」

 細長い厨房の中で、肉をほぐす女の子とタコスの具を用意しつづけるおじさんにはさまれ、僕はタコスを一気にほおばった。緑のサルサがかかったタコスはコリエンダーも入って最高にうまい。これだ。どれだ? とにかく僕は「これだ」と思ったのだ。

「日本ではタコ・チェボっていう名前で売り出してくれ」
「チェボって何ですの?」
「俺のあだ名や。チェボ、つまりエウセビオの省略形」

 店の女の子みんながどっと笑った。

「他に何か教え忘れてるもんないか?」

 師匠は開店前までの一番忙しい中、僕にこれで日本でやっていけるか、と聞いているのだ。

「ワカモレ!」

 後ろで肉をひたすらほぐしていた女の子が突然割って入った。振り返るとにこにこしている。いつのまにか僕は店のみんなから応援されるようになっているみたいだ。

 ワカモレはアボガドをジューサーにかけて作ったねっとりとしたソースだ。メキシコではいろんな場面で遭遇する。おじさんは「そうやったな、タコスにワカモレかけるからな」と言い、僕は早口で説明されるレシピを、例によってプラスチックボードの上でメモし続けた。

 開店直前の六時前になって、とうとう僕はグラントルタにおけるすべての修行を終えた。 


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