2003.01.28号(人物) ■■ フリーダ・カーロ ■■
フリーダ・カーロといえば、一度観たら絶対に忘れられない、力強い瞳の自画像で有名。その瞳には、若くして遭遇した大事故のために一生を身体的苦痛の中で過ごしてきた苦痛、夫であり師でもある画家ディエゴ・リベラとの愛憎入り混じった複雑な感情が投影され、その苦悩や悲しみから逃げることなく、正面から「生」を直視する彼女の姿は観る者を圧倒します。彼女の瞳から発せられるメッセージを理解するには、彼女が生き抜いた激しく濃密な47年間を辿りながら、作品を眺めていくことをお薦めします。 <フリーダの生涯> 1907年7月6日、革命の嵐が吹き荒れるメキシコで、フリーダ・カーロはインディヘナの血を引く母親と、ドイツ系ユダヤ人の父親の3女として生まれた。フル・ネームは、マグダレナ・カルメン・フリーダ・カーロ・カルデロン Magdalena Carmen Frida Kahlo Calderon、家族は、メキシコ市の南にあるコヨアカンで写真館を営んでいた。6歳の時、小児麻痺にかかり、右足に後遺症を持つが、性格は勝ち気でおてんば。1922年に入学した高校で、講堂に壁画を描いていたディエゴ・リベラ Diego Riveraを知る。 1926年9月17日、19歳の時、乗っていたバスが路面電車と衝突する大事故に遭い、脊柱を3箇所、鎖骨、肋骨、右足などに損傷を受け瀕死の状態に陥る。また、鉄棒が腰に突き刺ささったことで、子供の産めない体となる。その後、奇跡的に回復し、歩けるようになったフリーダだが、この事故の後遺症により、彼女は生涯、激しい体の痛みに苦しむこととなる。この時期、療養のためベッドので過ごす彼女の唯一の慰めが絵を描くことであり、ここに彼女の画家としての人生が始まる。 事故の様子を描いたフリーダのスケッチ ![]()
"unos cuantos piquetitos"
1938 年、メキシコを訪れたフランス人のシュールレアリストのアンドレ・ブルトンが彼女の絵に注目し、世界的な脚光を浴びだす。
フリーダの国際的評価が本格的に高まっていたのは、死後数十年がたった1980年代半ばから・・・。 <映画『フリーダ』の感想> 正直言ってしまうと、ちょっと不満が残る映画・・・でしたが、フリーダを知るための入門編の伝記映画、娯楽作品としては、おすすめできます。映像は、メキシコでロケされただけあって、明るく絵画的で、メキシカンカラーに溢れています。フリーダの生家やアトリエも本物そのままに再現されていて、小道具からエキストラまで、見ているだけでメキシコにいる気分に浸れました。サントラも素晴らしく、これまでハリウッド映画でメキシコといえば、麻薬や犯罪の舞台というイメージが強かっただけに、お国の良いイメージアップになったのでは? 最後に、ゴールデングローブ賞を取ったサントラについて。本当に美しい曲ばかりですが、中でも圧巻が「ラ・ジョローナ」(「泣き女」お化けの伝説を題材にしたオアハカ州の民謡)。この曲を歌っている亡霊のようなお婆ちゃん、ただ者ではないっと思いクレジットを見てみると、なんと、「チャベーラ・バルガス」お婆ちゃんではないですか。彼女についてはカフェ・メヒコの「Panchitoのラテン音楽ワールド」Archivo #002「テキーラ45000リットルの伝説〜チャベーラ・バルガスの復活」でPanchito氏が詳しく紹介していますので、そちらをどうぞ。なんでも、彼女は、一時期コヨアカンのディエゴ・リベーラとフリーダ・カロ夫妻の家で彼らと同居していたとか!
<フリーダに関する日本語文献>
<メキシコでフリーダの絵を観るなら・・・> フリーダ・カーロ美術館(青の家) コヨアカンという 閑静な住宅街に佇むコロニア様式の「青の家」(フリーダの生家で、1941年から54年に死亡するまで夫ディエゴと暮らした)。アトリエや台所、寝室などが当時そのままに残されていて、フリーダの息づかいが感じられます。住所は、メキシコシティ南部コヨアカン地区。 ドローレス・オルメーダ・パテイーニョ美術館 メキシコ市郊外のソチミルコ。 国立近代美術館 メキシコ市中心にあるチャプルテペック公園内。フリーダだけでなく、メキシコ近代美術を代表する画家の絵が展示されている。 <おすすめサイト> イタリアのサイトみたいですが英語で書かれてます。 (chiaki)
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